文化都市金沢と横山隆興

文化都市金沢と横山隆興

(株)辻家庭園保存会 代表取締役 辻  卓 氏 (金沢西RC会員)

 今日、金沢は非常に魅力があるという事で国内外からたくさんの観光客が訪れています。日本政策投資銀行の北陸支店が昨年末に「北陸新幹線開業に伴う一年間の経済効果について」を発表しました。予測では124億円でしたが実際にはなんと678億円だったと言うことで5倍以上の効果が出ている。文化というのは一口で言えばある地域の人々の共通する価値観ということになります。具体的には衣食住であるとか芸能・工芸などですがそれが金沢には非常に高いレベルであることが魅力であり、金沢の景観の良さというのもあります。しかし、この金沢の文化レベルは皆さんが考えているより異次元というほど高いのです。これはデータでハッキリ出ているんです。例えば、現在は人間国宝が全国で115人いますが1番多いのが東京で48人、2番目が京都で12人、3番目が石川県で9人です。ところが人口100万人当たりの率でみますと石川県がダントツでトップです。他に日展の入選者の数も全国でトップなんです。さらに、茶道・華道・能・芸能・クラシック音楽の愛好家なども全てがとても高いレベルです。そういった物が町に染み込んでいる金沢の魅力に内外からたくさんの人が金沢へ訪れる訳なんです。この金沢の高い文化が何に起因しているのか、まず、文化には大きな特性が二つあります。第一の特性は「文化は余裕の産物である」と余裕がない所に文化は芽生えもしなければ発展も維持も出来ないということです。第二の特性は「文化は非常にか弱いもので脆弱である」と文化はある条件を失うと途端に消滅し、しかも再興するということは殆ど有り得ないということです。明治政権下では金沢は非常に冷遇されました。その頃の金沢の惨状は実に惨憺たるものでした。城下町であった金沢は武家社会がなくなり、仕事を失った民は余裕がなくなり完全に文化を失った状態になっていたんです。この状態があと10年続いていたら間違いなく消滅したであろうと思います。それを救ったのが尾小屋銅山で財を成した、横山隆興(よこやまたかおき)でした。明治12年、当時の尾小屋銅山は二大国策の富国強兵と殖産興業に煽りを受けました。鉄と銅は近代化にはなくてはならない物であり、価格も非常に上がって一躍脚光を浴びるものなりました。明治の中期から大正にかけて「金沢は横山で持つ」という時代を作りました。横山隆興は文政10年(1827年)11月13日、加賀藩年寄横山隆章の長男として生まれ、今日の金沢の文化というものが幕末の百万石の文化が廃れずに残せた理由であり、これがなかったら完全に失われたことは間違いないと断言できます。理由は徳川御三家の名古屋・水戸・和歌山を見ればそこにあった文化がほとんどが失われてしまっていることで理解できいます。それに比べて金沢の文化は根強く残っており、守り続けられていることは奇跡に近いことです。これが金沢の魅力であり、その魅力の大恩人は横山隆興でありますがその金沢の人ですらほとんど、そのことを知らないことを残念に思います。